初めて急行料金を払って乗車した153系急行型電車

こんばんは。今日は実業家・投資家・タレントのホリエモンこと、堀江貴文さんのロケットが打ち上げられました。ただ残念ながら今回は、海上に落下した模様で失敗に終わりましたが、チャレンジ当初はどの分野でも失敗はつきものですので、次回のロケット打ち上げにフィードバックして、今回の失敗を克服して欲しいと思います。

今月も早いもので明日で終わりますね。夏休みに入り花火大会・盆踊り・祭りが盛んな季節でございますが、帰省とレジャーを兼ねて、夏休みやお盆休みに各交通機関を利用して、移動される方々も多いと思います。

今日、自宅に保管されていた、鉄道資料の「Japanese RAILWAY ENGINEERING Vol.2 No.2 JUNE 1961」を開いたら、今から33年前に全廃された、153系直流型急行電車の英文資料が出て来ましたので、子供の頃に私が自分の小遣いを貯めて、初めて乗車した急行電車でしたので、ブログに書き込んでみました。

写真を掲載した資料は、今から56年前の1961年7月に発行された資料ですが、大学4年生だった当時、東京神保町の古書店で購入した資料です。

こちらの資料に掲載されている記事は、1961年3月に153系を本格的な急行運用に使用する為、急行せっつ号のデラックス化と、客車急行なにわ号の153系電車化により、東京~大阪間を1等車(現グリーン車)2両と、半室タイプのビュッフェ+普通車2両を新たに連結して、営業運転を行う記事でございます。

1等車はサロ152、半室ビュッフェ+普通車はサハ153の形式となり、1等車はリクライニングシートの下降式窓と、ビュッフェ車は握り寿司を営業する記事が、明記されております。

サロ152も誕生当初は非冷房でしたが、サハシ153のビュッフェだけは冷房付で製造されました。主に東京~大阪間の153系の急行列車は、普通車は全て自由席車で同区間を走る、特急こだま号・特急つばめ号・特急はと号等の、フォロー的役割で運転されておりました。

まだ東海道新幹線が開通する前の東海道本線は、列車のダイヤも過密で前述の特急・急行・準急・普通から貨物列車も同じ線で走っておりましたので、増発もままならない状況で在来線の各列車も、混雑が激しい状態でした。

1960年代は日本も高度成長期時代の幕開けで、経済成長も著しい伸びでしたので、東京~大阪の都市間も企業のビジネスマンが、東京~大阪を鉄道で行き来していた時代でしたからね。まあ今の様に飛行機運賃も安く無く高い運賃でしたし、道路も整備されておらず名神高速道路が1962年に開通としたばかりでしたので、高速バスもまだ一般的ではございませんでしたからね。

前置きが長くなり失礼いたしました。私が初めて153系の急行電車に乗車したのは、1980年6月に東京の両国と千葉の成田間で乗車した、急行水郷号の153系に乗車したのが初めてでした。急行水郷号は7両編成で、2号車に165系グリーン車のサロ165が連結されておりました。成田線も成田から佐原方面の小駅は、ホーム有効長も短く総武本線を経由する急行犬吠号が、165系3両を153系7両に増結した10両編成に対し、地味な感じの列車だったなあと言うのが印象的でした。

乗車した当時は授業参観日の日曜日で、休日登校から下校後に両国へ足を運び、軟券式の補助急行券100kmまでを購入して、両国の列車専用ホームから乗車いたしました。

その頃の153系も本格的に廃車の時期が始まったばかりでしたが、乗車したモハ152の車内は涼しく、快適に70分の移動を楽しむ事ができました。

成田で下車した時にグリーン車に乗車したら、乗客は皆無で専務車掌がグリーン席に座り、リクライニングしながら旅客集計をしておりました。まあ今で有ればクレーマーの旅客が、JR等へタレこみ懲戒処分されそうですが、国鉄時代で長期赤字の時期だったとは言え、緩かった面も有ったのでしょう。

その他に153系急行電車に乗車した思い出に関しては、また改めてブログに書き込みたいと思います。

写真はJapanese RAILWAY ENGINEERING Vol.2 No.2 JUNE 1961より。


イメージ 1